尾崎豊とインターネット
成人の日に朝日新聞が社説で尾崎豊に言及したことから、尾崎豊がにわかに話題となっている。僕も中学生の頃、尾崎豊を一時よく聞いていたので、少し彼について書いてみようと思う。
・尾崎豊は何を歌ったのか?
成人の日に―尾崎豊を知っているか
http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html
朝日の社説が言っていることは、簡単に言うと「最近の若者は、尾崎が評価されていた時代と比較して、より厳しい時代に生きているにもかかわらず、尾崎豊に共感できない。それは若者が従順になっているからだ。若者は、社会に対して反骨精神をもっと示したほうがいい」というものだ。
ここで僕が理解できないのは、尾崎豊を社会への反抗のシンボルと見なしている点だ。僕は、これは尾崎豊の本質的な理解だとは思えない。たしかに、彼の曲『卒業』には「この支配からの卒業」など、学校という社会のシステムに対する反発と読める部分もある。しかし、尾崎豊のエネルギーの源は「無力な自分に対する焦燥感」であって、社会への反発はその発露にすぎない。
例えば、『愛の消えた町』では「金の取れない学生にいったい何ができるというのか」と歌い、『シェリー』では「いつになれば俺は這い上がれるだろう」と歌っている。ここには、まだ何者でもない自分に対する無力、焦りが感じられる。
無力な自分の存在に気づき、それを変えるのは自分しかいないと気づくのが大人であるとするならば、まだ大人ではなかった尾崎豊が言及した社会への反発は、ただ自分の焦燥感の発露でしかない。その意味で、尾崎豊を社会への反発のシンボルととらえるのは、本質をついていない。
・尾崎豊はなぜ支持されなくなったのか
先に述べたように、朝日の社説が尾崎豊の本質を誤認しているとしても、最近の若者が尾崎豊に全く共感できないのはなぜだろうか。僕は、統計を見た訳ではないが、ここでは尾崎豊に共感する若者が減っていると仮定して、その可能性を考えてみたい。
僕は、尾崎豊の本質は若者が自分自身の無力を認識することからくる焦燥感にあると考えている。よって、もし尾崎豊に共感する若者が減っているのであれば、自分の無力感やそれに対する焦燥感を感じる若者が減ってきているのが原因ではないだろうか。ここでは、若者が無力感と焦燥感を感じなくなった可能性二つを考えてみたい。
まず一つ目の可能性は、若者が無力感、焦燥感に対して鈍感になったというものである。これは、10年20年で人が変わる訳がないので、馬鹿げた考え方であるが、「お前らもっと頑張れよ」と若者を責め立てようとする朝日の社説の著者などは、このように認識しているのかとと疑ってしまうが。
もう一つの可能性は、そもそも若者が無力ではなくなったので、無力感や焦燥感を感じなくなったという可能性である。僕は、この可能性がかなり高いと思っている。とくに、ここ10年20年での最大の変化であるインターネットが若者の立場を大きく変えたのではないかと思っている。
まだインターネットのなかった時代であれば、中学生、高校生はどうすれば自分は世間から認められるのか、また将来どのような可能性があるのかなど、調べる手だてなどほとんどなかった。そのため、若者は何か自分でしたいと思っても、それをどのように行動に移すのかが分からず、無力感や焦燥感を感じるケースが多かったのではないだろうか。また、早熟した若者であれば、周りの大人や生徒とも認識が合わないことは簡単に想像されるので、孤独を感じていた若者も多くいたであろう。
しかし、誰もがインターネットにアクセスできる現在、彼らは簡単に答えを調べることができるようになった。得に優秀な者であればあるほど、自分の可能性を知り、また実際に社会に影響を与えることもできるようになってきた。以前であれば、孤立感を抱いていた早熟した若者も、インターネットで自分と同じような考えを持っている人がたくさんいることを知れば、孤独を感じる必要はないだろう。
若者が尾崎豊に「自己中心的なだけじゃないか」「何が不満かわからない」と言い、彼に共感できないのは当然である。現在の若者はもう彼の時代の若者のように無力でも孤独でも無知でもないのだから。