30代経営者修行中ブログ

顧客、従業員、家族から必要とされる事業、そして自分が納得できる事業を創ることを目標としています。

公共心と自由

 最近、教育基本法の改正が議論されているせいか、公共心についての議論が目立つように思われます。そこで、少し私見を述べようと思います。
 よく目にする議論は、自由の行き過ぎを公共心によって、抑制するというもので、自由対公共心という対立軸をもってくるものが多いように思われます。そして、その議論に対する反論としてよく目にするのが、公共心の強制は国家主義につながるというものです。
 僕には、両者の意見は公共心を国家を軸に語っているように思えます。前者は、往々にして、親国家的である場合が多く、後者は、反国家という概念に取り付かれ、公共心を国家的という視点でしか見れなくなっているように思えます。
 僕の意見は両者とはまったく異なります。僕は、公共心が自由を作ると考えています。これはどういうことかというと、公共心が育つ事で、市民自らが社会を積極的に作り出し、国家の社会にたいする介入が抑制されるという考え方です。
 なぜこのようになるかというと、そもそも、社会的な政策や公共への奉仕は社会を営む上で、必ず誰かが行わなければなりません。そう考えると、もし公共心が欠如した社会があれば、必ず、国家等の組織がその政策を実施する為に何らかの策を講じなければなりません。そうする事で、結局は国家の社会に対する介入は増加します。
 このことは、現在の日本がはっきり示していると思います。戦後、日本のリベラルを称する反国家主義者たちが、公共心=国家主義と勘違いして、結果として公共心の腐敗が嘆かれる現在、皮肉な事に、逆に、国旗国家法の成立、教育基本法改正というように、国家の社会への介入が強まっていると思います。このことは、当然の結果といえるでしょう。公共心の無い社会が成立しない以上、国家が強制的に公共心を作り出し、社会を再生しようとしているわけです。そして、こうなれば、当然、自由の度合いも低くなります。
 僕は、反国家主義者ではありません。ですから、法整備などされなくても、君が代を国家だと思っていましたし、日の丸を国旗だという事に違和感はありませんでした。しかし、どちらかというと僕は自由主義者ですので、そんな当たり前のことを法律で定めること自体には違和感を禁じえません。
 公共心=国家的という、誤ったイメージから脱却し、反国家対親国家という、現在の不毛な対立を乗り越えて、公共心が自由を作り出すという視点で考えて欲しいものです。