30代経営者修行中ブログ

顧客、従業員、家族から必要とされる事業、そして自分が納得できる事業を創ることを目標としています。

超フラットな理想社会

 テスト勉強で民法の親族について勉強しているとすごい文章に出会った。

婚姻制度は時代により、また社会により一様ではない。この婚姻制度の沿革を、最初に体系づけたのは、人類学におけるいわゆる進歩主義学派であった。その説くところによれば、人類の婚姻形態は、「乱婚制」→「集団婚」→「対偶婚」→「一夫一婦制」という段階を経過するものだとされる。この説は、社会主義思想と結びつき、原始乱交制ないし集団婚の段階においては、真に男女平等であったが、富の増大につれ、次第に男性の地位を高め、やがて母系制の最後の形態である対偶婚制を経て、私有財産制と結びついた一夫一婦制に到達するが、この婚姻制度は男性による女性の支配であって、最終的婚姻制度とはいえないとする。
民法 (8)親族』有斐閣双書 p54

 気持ち悪い。非人間的な「理想社会」がやってくるべきという隠れた主張が透けて見える文章だ。
もちろん、現在ではこのような考え方を支持するものは減ったが、少し前まで、この国のアカデミックはこんなバカなことを本気で考えていたということがよく分かる。
 一夫一婦制が最終的婚姻制度とはいえないと書いてあるが、では、どのような婚姻制度が到来する(して欲しい)のであろうか。この文章によると、婚姻制度の発展(退化)によって、男女間の平等はなくなり、現在の私有財産制度と結びついた一夫一婦制のもとでは、男性による女性の支配が行われているというのだから、すくなくとも、きたるべき、次の婚姻制度はその男女差別を排したものということになるだろう。たしかに、このように考えると、きたる婚姻制度は男女間の平等がなくなり、非常に望ましいもののように思われる。
 しかし、騙されてはいけない。彼らのような社会主義者のいう「平等」とは、差別や偏見をゼロにするということであるからだ。このことを明示する文章を見つけたので例示する。「私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)」というテーマについての文章である。

性闘争=自我闘争を封鎖しない限り、それを制圧する権力の共認が必要になるからである。(注:社会主義国の失敗の究極の原因は、そこにある。つまり、恋愛や一対婚を無自覚に肯定したままでいたが故に、必然的に権力が必要になり、また必然的に市場社会へと移行していったのである。)

社会主義国家は、私権に基づいた一夫一婦の婚姻制度を温存させたことによって、性闘争を排除することができなかった。
その結果、私有が発生し、社会主義の根本である共有という概念が度返しされた私権原理に基づいた旧観念が勝り、権力が必要になってしまった。

やはり、本源的な共認充足を実現するためには、性闘争=自我闘争を封鎖ししなければならない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=129388

 ほんとに、読むに堪えない文章である。まず、性闘争とはメスを巡るオス同士の争いのことであるらしいが、それを完全に封鎖するという。性闘争というのは、どう考えても人間の本質的部分の一部と思われるが、それを完全に排除するというのである。機械の誕生である。
 次に、一夫一婦制度は私権であるから、共有にしろと言っている。これは、乱交しろというのに等しいと思われる。そうは言ってなくても、現実にこのような考えを適応した社会を作れば、そのようになると思われる。しかし、彼らによると、その社会にはすでに夫婦という関係はなくなり(もしくは全員が夫婦)、全員が平等になると言いたいのである。そこに生まれた子供は「社会の子供」であり、全員で協力し育てるのだろう。
 このように、社会主義の平等という思想は、人間と社会の改造であり、人間の本質を顧みず、差別ゼロ、偏見ゼロの機械のような人間を生み出すということであるというのが分かる。あらゆる、人と人の特別な関係は差別や偏見のもとであるとされ、超フラットな無機質な社会を望むのである。
 このような思想のどこが問題だと思うかというと、やはり、人間というものへの洞察が全くないことである。人間が多くの問題点を持つことは事実である。戦争を含めて、人と人との争いというのは、人間の最も大きな欠陥だと思う。そして、その争いとは、人間が持つ他者への偏見や差別に起因することは確かに多いと思う。しかし、同時に人間の他者への偏見や差別は、人間の本質的な部分だと思う。
 もちろん、社会から、人間同士の争いがなくなればいいとは思う。しかし、そのために、人間の本質を取り払った機械のような人間を生み出すことには、反対である。というか、そんなことはできないとおもう。頭の中だけの理想論であり、悲惨な現実を生むと思う(上の例では、乱婚。)。
 で、なぜ、こんな古い社会主義批判をしているのかというと、社会主義は滅びつつあるものの、日本人の思考回路にこのような考え方がいまだ生き続けているように思うからである。たとえば、僕の学校時代では、「いじめるという感情が沸くこと自体がおかいしい」とか「話せば必ず分かりあえる」とか「みんな友達」とかいうことを延々言われてきた。また、なにかでグループ分けする場合には、必ず一人になる人が出ないようにと配慮され、自由にグループを決めることが許されなかった。
 このように教育した先生が必ずしもはっきりした社会主義者ではないが、その倫理感は社会主義者のそれとよく似ていると思う。原因が起きた上で、それを解決していくという姿勢ではなく、そういうことがあらかじめ起きないシステム、起こさない人間というのを理想として進めていく、そういう思考法だと思う。問題と向き合えない、大人になれない人間の大量生産システムだと、個人的に思っているが。
 うーん。微妙な文章になってしまった。
 なんか、うまく言えていないけど、 とりあえず、終わります。
 また、考えをまとめて書き直そう。