30代経営者修行中ブログ

顧客、従業員、家族から必要とされる事業、そして自分が納得できる事業を創ることを目標としています。

いかなる制度も人間の幸福を作れない

 努力しても決して幸せになれない理由という記事を読んだ。
 資本主義は実際、他の制度と比較して、寿命を延ばし、貧困をなくし、生活の水準を上げているのになぜこうも嫌われるのかと問うている。それは、幸福は相対的で、周囲との比較だからだとしている。つまり、いくら絶対的な富が向上しても、周囲の富も増加すれば、人はたいして幸せだと思わないということだ。そして、結論的には、人は、周りに自分より貧しい人が何人いるかで幸福を決定するとしている。よって、資本主義は、勝ち組の幸せのために負け組みを用意せざるおえなくなるので、嫌われるという。
 
 思うに、別にこれは資本主義の特徴ではないと思う。いつの時代のいかなる場所でも、人は不平不満を言っているものだ。というのも、他人との比較を幸福の基準にするのは、人間がいつでも、どこでもやってきたことだからだ。聖書を読んでも、他者への妬みの感情がよく出てくるが(例えば、アベルとカインの話)、これは、人間の本性として他者より秀でたいという思いを強く持っているからであろう。
 だから、資本主義社会が他者との比較によってしか幸福を見出せないから嫌われるのではなくて、人間自体に他者と比較して幸せを測るという本能があるから、資本主義社会も他の社会と例外なく嫌われるのである。そして、自分の周りと比べて、誰よりも自分は勝ち組だと思える人間はほとんどいないわけだから、結局、ほとんどの人が幸せにはなれないわけである。
 だから、問題は、他者との比較という幸福の価値基準から、いかに自分本位の価値基準を築けるかというところにあるのではないか。不幸だと感じる場合は、妬みという感情をどのように処理していくかが大事なのではないか。
 僕は、社会やその制度によって、個人の幸せが与えられるはずはないと思っている。特に、人が自分の人生に対して、一過性的な幸せ(快楽と言ってよい)ではなく、充足感を得るためには、自分自身の精神の向上等の自己の内面の成長以外にありえないと考えている。
 人は、社会が進歩すれば、それによって人も進歩すると錯覚するが、実際には、社会がいくら進歩しても、人間自体は、全く進歩しない(生まれたばかりの赤ん坊は、今も大昔も同じく、全くの無知である)。だからこそ、聖書のように(僕はクリスチャンではないが)大昔の本に対して、いまだに人は、人生について学ぶのではないだろうか。幸福を他者や他者との比較という他律的要因に求めるのではなく、自分の内面に根ざして求めるべきである。